一年半のご無沙汰

 一年半のご無沙汰とは…継続は力なりという格言が裸足で逃げ出しそうな態たらく。
 読んでいただいたいた方々におかれましてはお久しぶりでございます、と言いたいところですが、誰もこんな辺鄙な blog は読んでませんね。うん。

 本を読むこと事態は細々と続けてます。御宿かわせみシリーズは何時読んでもほんわかと楽しめますね。それ以外にも、熊谷達也著『相克の森』『邂逅の森』を読んではため息をつき、藤巻幸夫著『自分ブランドの教科書』『チームリーダーの教科書』を読んでは自分の不甲斐なさにくらくらし、海音寺潮五郎著『伊達政宗』を読んでは宮城県人の血を滾らせてみたりしていました。

 久々に「読書の音」の管理画面に入ったとき、blog を書き始めた意義は何だったっけと記憶をたどってみると、あの一文にぶち当たりました。そうだそうだ。恩田陸著「三月は深き紅の淵を」の第一章で誰かが行った言葉。

第一、我々は自分がちょっとばかし本を読んでいると自惚れているかもしれないが、これだってとんでもない幻想です。人間が一生に読める本は微々たるものだし、そのことは本屋に行けばよーく判るでしょう。私はこんなに読めない本があるのか、といつも本屋に行く度に絶望する。読むことのできない天文学的数字の大量の本の中に、自分の知らない面白さに溢れた本がごまんとあると考えると、心中穏やかじゃないですね。

 と言うような意味だった気がする。同書に

こうやって、今までの人生で読んできた本がずらりと並んでいるっていうの、羨ましいですよね。僕は専ら図書館だから。生まれて初めて開いた絵本から順番に、自分が今まで読んできた本を全部見られたらなあ、って思うことありませんか?雑誌やなんかも全部。そうそうこの時期はSFに凝ってたなあとか、この頃はクラスの連中がみんな星新一読んでいたなあとか。それが一つの本棚に順番に収まっていて、ぱらぱらめくれたら。そういう図書館が一人一人にあって、他人の読書ヒストリーをのぞくっていうのも面白いだろうなあ。好きな子のを見て、同じ本を探して読んだりして。

 と言うような文もあった気がする。記憶はあやふやだが、この二文にいたく共感したのが、この blog を書こうと思ったきっかけだったのである。あくまで自分のための空間ではあるけれど、私が書く感想を読んで、その本に興味を持つ人が出てくれたら、やっぱり嬉しい。うまくすれば、この blog が、その人の読書記録の一部になるかもしれない、と思うと、少しは身を入れて書かなくちゃ、何ぞと思うわけだ。

 と、御託はこれまで。今後は細々と更新していきます。

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■ 現在読んでいるもの

  • 外山滋比古『思考の整理学』
  • 熊谷達也『邂逅の森』
  • 藤巻幸夫『自分ブランドの教科書』

■ 積まれた本たち

  • 洞門冬二 いろいろ
  • 平岩弓枝『御宿かわせみ』27

■ 積まれる予定の本たち

  • 渡辺毅『決断の標―さむらいの門』

■ 他

  • なし

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一ヶ月のご無沙汰

 東北のとある都市では、桜が五分咲きとなりました。市民の憩いの公園にはちょうちんが垂れ下がり、すっかりお祭りムード。花よりも濃く香るアルコールと焼きそばに辟易しながらも、夜桜を楽しむことができたのが昨日。ようやく繁忙期脱出なるか、といったところです。

 なんだかんだいいながらも本は読み続けており、読むものリストもがらっと様変わりすることになりそうです…とはいえ、メインは『御宿かわせみ』シリーズでした。佐伯一麦氏の『一輪』も読んでみたり。すごくよかった。特に、あとがきが。

 夜桜ついで、と本屋へふらふら。

 前から気になっていた、高田崇史氏の『Q.E.Dシリーズ』を買ってみたり、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』をいまさらながらに購入してみたり。『御宿かわせみ』シリーズは9巻だけ見つからず断念。三島由紀夫は手にとって戻してみただけ。佐伯一麦氏の本は相変わらず見つからないし、渡辺毅氏の本もみつからない。さすがに森瑤子は食傷気味だし…と本棚をぐるぐる回っていると、サラ・ウォーターズの新刊が7月に出るらしいと入電。『Tipping the Velvet』が訳されるのか、『The Night Watch』が訳されるらしいがどちらなのだろう。訳者は『半身』『荊の城』に続き中村有希氏であるらしい。楽しみ楽しみ。

 そういえば以前、「海外ものは翻訳者で決まる」というようなことを書いた。どの作家の本を読もうか、と悩むことはあってもどの翻訳者の本を読もうかと考えたことは、いまだかつてない。せっかくなので同氏が訳したものを読んでみよう…積読リストが落ち着いたら、ね。

 というわけで、ぼちぼち再開していきます。

 まずは谷崎の『少将慈幹の母』からですね…って貸し出し中だわ。

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読むものリスト

■ 現在読んでいるもの

  • 谷崎潤一郎『少将慈幹の母』

■ 積まれた本たち

  • 島崎藤村『家』
  • 渡辺毅『ぼくたちの〈日露〉戦争』(再読)
  • 渡辺毅『鳴動 そこむし兵伍郎 奥州岩月藩出入司元締手控』
  • ヘルマン・ヘッセ『デミアン』
  • 洲之内徹『棗の木の下』『砂』『終りの夏』
    • 第二十三回芥川賞選評(昭和57年5月 文藝春秋から)
    • 第二十四回芥川賞選評(昭和57年5月 文藝春秋から)
    • 第二十六回芥川賞選評(昭和57年7月 文藝春秋から)
  • 藤本ひとみ『マリー・アントワネットの生涯』
  • 川端康成『伊豆の踊り子』
  • 伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』
  • 平岩弓枝『御宿かわせみ』4
  • 平岩弓枝『御宿かわせみ』5
  • コナン・ドイル『シャーロックホームズの事件簿』
  • 森瑤子『情事』
  • 渡辺毅『少年たちの樺太』

■ 積まれる予定の本たち

  • 佐伯一麦『ショート・サーキット』
  • 佐伯一麦『鉄塔家族』
  • 三島由紀夫『金閣寺』
  • 渡辺毅『そこむし兵伍郎 奥州岩月藩出入司元締手控』

■ 他

  • 島崎藤村『家』
    • 読むのが苦痛。これは久々に挫折するかもしれない。

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夜のチョコレート

 森瑤子著。

 素敵な大人の女性になるための28のマニュアル、とのことである。私が何故この本を買ったか?理由はそのものずばり、素敵な大人になりたいからだ。または、そのような女性をいつか、書きたいと思ったからだ。
 世に書籍はさまざまあり、さまざまな女性が出てくる。その中における「素敵な女性」とそうでない人をかき分けたりするための参考資料になるのではないかと思ったわけだ。

 28のエッセイを分類すると、テーマは5つ ― 「年齢」「知性」「女と言う生き物」「会話」「恥」 ― に分かれる。これらを貫くテーゼは「あなた自身が、あなたをどう思うか」である。

 年齢。コレについては「人生経験」と置き換えても良い。若い頃からシャネルやロレックスを身につけ、飾り立てる娘達に向かって「似合わん」と一刀両断。あれらの、洗練も完成もされたモノを身に着けるのは(加齢による)外面の欠点を補うためのものでしかない。また、単にブランドであれば良いと言うものではない。外面の欠点を補うだけでなく、それらを生かすためには、それを着るにふさわしい知性と深い洞察力が必要なのだというのが森瑤子氏の弁である。
 私もそう思う。私にとって、ブランド物の服飾品というのは贅沢の極みでしかない。ブランド品の一つも持ってないのかと笑う人間は、自分のブランド嗜好を笑われているのに気づいてない人間でしかない。ヨーカドーやユニクロが私は好きだ。安いし、自分の背丈に合ったものが買えるしね。
 20代の若い女性には、自らの若さ溢れる肉体があるのだ。それこそが貴女のブランドだろう、と私も思う。それをシャネルやなんやらで隠すなんて愚かしい。

 知性。テストで高得点を取れるとか、学歴が高いとか、そんなものはどうでもよい。自分の行動が、周りにどのような影響を与えているかを計算、把握、分析し、それらに拠ってどのように行動すればよいかを瞬時に判断できるというのが知性のきらめきだろう。そのためには、せっせとセックスに励むだけでなく、本を読んだり旅に出たりして、様々な体験を積極的にすることが肝要だと彼女は言う。
 カフェで女性がタバコを吸う行為、髪の毛をいくどとなく触る行為というのは、欧米ではセックスアピールと取られるらしい、なんてことを知らずに強姦される日本女性は結構多い、とのこと。
 ま、まぁ、文化の違いは差異があるからこそ面白いんだけどね。とまれ、自分の行動が自分に対してどういう結果を産むのかというのは常に気にかけておきたい。

 女と言う生き物。女は美しき獲物であり、ハンターである。そして、男女の間においては常に、100%の自分をさらけ出すものではない。すべてを出し切ってしまうと、相手にも自分にも退屈しか残らない。常に知識や経験を補充し、夫にでさえ隠しておく「神秘の部分」を失ってはいけないというのがその指針。
 全部知ってしまうと、面白くないのは、人間でもモノでも一緒。たまに意表を突かれたりするから楽しいのであって。同じ2時間ドラマを何十時間も見せられたらさぞや退屈するでしょう?
 男も、女も、やましい意味ではない「秘密めいた部分」を残しておきたい。閨房のことだけではなく。

 会話。特に男の口説き方について。
 常に相手を思いやること。自分のことばかり喋らないこと。逃げ場を用意してあげること。ここぞと言うときには明言を避けること。などなどの実用的なHow-toが載っている。
 これはもう、私なんかにとっては耳が痛いことこの上ないご指摘。そういう意味では、私の会話術は最悪の部類に入る。合格点が取れるとすれば、逃げ場を用意してあげることであろうけれど…私がそうするときは、その逃げ場に罠を置いておいた後なのである。と、自分語りになってしまう悪循環。スマートな会話や電話というのはかくあるべきと言う話であるが、論理性はあまりない。が、妙に納得してしまう。気をつけていこう。

 そして、恥。
 恥も外聞もない行動を取るのは、悲しいかな、「おばさん」と呼ばれる人間達である。いやむしろ、その概念をなくした瞬間に、女性はおばさんになるのかもしれない。
 周りから自分がどう見られているか、あるいは、自分が自分をどう思うか。何を持って恥ずかしいと思うのか。年齢?知性?負の意味での女らしさ?会話の貧困さ?それとも ― それらすべて?いずれにせよ、諦めたら終わり。「どうせ私なんて…」と言う女はその程度の女にしかならない。男に振り回されるな。恥ずかしくない女として生きていこうと言うのが彼女の主張である。

 まったくもってその通り。私の世代は「他人がどう思おうと自分の好きなことをやれ」といわれた時期がある。個性というモノが尊重され、後に個性と言う言葉自体が没個性になるのだが、他人を他人と思わない生き方も認められてしまった時代だ。
 他人のことなんてどうでもよいといえばよい。が、少なくとも自分がどう思われているのかは把握するべきだし、公共の場では好きなこと以外もやるべきだし、好きなことをやってはいけないこともあると言うことも認識すべきというのは諸手をあげて賛成である。

 じゃあ、自分を振り返ったとき、どうだろう。
 …少なくとも、自分が異性だったとして、自分に惚れることはないだろう。ナルシズムではないが、少なくとも、せめて、自分のことを好きに慣れるくらいの努力はしようと思わせる本であった。

 総ページ数170。定価350円。古本屋に行けば50円。ちょっとお勧めです。

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水郷から来た女 - 御宿かわせみ3

 御宿かわせみシリーズその3、平岩弓枝著、である。

 こういうシリーズものは、せいぜい6巻くらいで飽きがくるのだが、このシリーズはどうだろう。中核となる部分を生かさず殺さず、かといってケチくさくなくいってほしいところである。
 では、御宿かわせみの中核部分はどこか。一つには主人公である神林東吾とるいの恋仲にまつわるあれこれ。一つには「かわせみ」を中心に起きる人情話。一つにはお江戸八丁堀の捕り物話。これらがどのように動くか、巻を重ねるのが、今は楽しみである。

 あいかわらず、二人はお熱いったらない。とはいえ、微妙に各所にオープンになっていく二人の関係。今の時代で考えればそうでもないだろうけれど、昔で考えたら結構勇気のいることであろうなぁと思う。

 今回のツボはこちら。

( 東吾に焼餅を焼いたおるいに…と言うシーン)

「来いよ」
「いやです」
「馬鹿だな、るいは…」
 東吾が腰を浮かすと、るいは立ち上がった。なんとなく、男の手をすりぬけてしまう。
「るい…」
「いやです」
 つんとそっぽをむこうとしたとたんに、凄い稲妻だった。雷鳴が稲妻を追って大川端に響き渡る。
 夢中で、るいは東吾にしがみついていた。男の手が、軽く、るいを抱き上げた。
「粋な神様だな、るい…」
 男の胸を握りこぶしで叩いていたるいの力もすぐ弱くなった。

   (中略:釣りバカ日誌なら「合体」とテロップが出るところ)

「風鈴くらいで妬くなよ」
 東吾が笑ってるいの頬を突き、るいは真っ赤になって、櫛を拾った。

 今回の甘いシーンは、一巻、二巻よりもシチュエーションに凝ったものだったような気もする。行灯が油切れして火が消えて…とか。一瞬「それなんてエロゲ?」というところもままある。そういう意味で言えば、今回は東吾くん、兄嫁エンディングのフラグが立ったと言えなくもない。いずれにせよ、さまざまに工夫された甘さが、なかなかに味があってよい。時折ピリッとしたものを含ませる作者の狡知といおうか巧緻といおうか、には脱帽です。

 話を戻そう。
 今回のテーマは「痴情」だろうか。

世の中に 
  男と女のいるかぎり
  振って振られて憎み合い
  好いて好かれて殺し合い 

 あーこりゃこりゃと。

 男女がお互いに向ける欲望と言うのは、本能であるところの性欲でもあり、理性であるところの愛情でもある。これらを成就させるための強殺であったり、根回しであったりが江戸の町を横行する。金、憎悪、恥といった感情が複雑に、時にシンプルに絡み合い、一つの世界を作り出していく。お江戸八百八町の言葉通り、我々が今認識している江戸と言うのは各人が認識するだけ数がある。

 その一角を、かろやかな甘さでアクセントをつけたのがこのお話である。さぁて、次は四巻目。シリーズモノの、それぞれの書評は難しいなぁ…。

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江戸の子守唄 - 御宿かわせみ2

 平岩弓枝著。

 御宿かわせみシリーズの第2巻である。 テーマは嫉妬、なのかも知れない。

  • 「江戸の子守唄」
    • 恋人の東吾に見合い話が持ち上がり、おるいさん嫉妬。
  • 「お役者松」
    • 天才的な変装術を持つスリ氏が「かわせみ」で働き始め、東吾嫉妬。
  • 「迷子石」
    • 東吾の命の危険におるいさん乱心。
  • 「幼なじみ」
    • 知り合いの植木屋の結婚を世話することになってしまったおるいさん。自分のことを鑑み、東吾との関係の頼りなさ、寂しさにちょっと悶える。
  • 「宵節句」
    • おるいに惚れていた男の出現で東吾嫉妬。
    • 東吾はいるけど「いきおくれ」なおるいさん。若さに嫉妬。
    • ともかく、この短篇は凄く良い。泣きたくなる。
  • 「ほととぎす鳴く」
    • こちらはそういう意味ではメインストリーム外かもしれない
    • 金と欲望、義理と人情。結構複雑なので図を描くとすっきりする。
    • ことの端緒はまぁ、嫉妬、といえば嫉妬。
  • 「七夕の客」
    • こちらも同様。
    • とはいえ、深読みすれば、中の良い母子に対する嫉妬、とも読める。
  • 「王子の滝」
    • おるい、激しくやきもきするの巻。
    • 東吾の相手は人妻ですよ。
    • そして自業自得に陥る東吾くん。もうなんつうか、苦笑しちゃう。

 と、このように、もしかしたら巻ごとにメインテーマが決まっているのかな、と思ったわけです。でもまぁ、考えてみれば、おるいさんが焼餅を焼くのはいつものことで、それを表に出すまい出すまいとして苦しんでいるわけですよ。そうなると、この読み方は間違っているのかもしれない。

 第一巻からの違いは、おるいと東吾の関係の安定度、であろうか。作中に書かれている「江戸を取り巻く情勢」もちょっとは変わってきているが、やっぱり目を引くのは二人の関係。双方とも、正式に籍は入れていないけど「相方」であるという自覚が芽生えてるらしい。

 結婚、ね。お互いの立場を考えると、おいそれとプロポーズすることすら出来ないというのは、何も江戸時代だけではなく、現代だってかわりない…。思いっきり断られたほうがどれだけ楽であることか。嗚呼。

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麦笛 2007年冬号

  佐伯一麦氏を講師に、短編小説の鑑賞および実作を行っている「麦の会」。年二回発行される会報である。ひょんなことから私の手元にやってきた。

 総ページ数128、A5判で並製アジロ。いまどき珍しいスタイルではある。ぱっと見は薄いのだが、中身はぎゅぎゅっと濃いものが詰まっており、読了に時間がかかってしまった。

 短篇、中篇を含む創作が12篇と、課題特集なる、とあるテーマに沿って書かれた創作が2編。今回は「携帯電話」が課題テーマとなっている。

(作者の方の名前を載せたほうがよいのだろうか…。とりあえず題名のみで。)

■ 秋田竿燈
 退職した世代の、なんとも言えない悲哀を描いた作品。
認知症にかかった妻を抱えながらの退職生活。現実の苦しみを忘れようとさまざまなことを行うも気は晴れず。公園でボーっとしているところへ「いきいき舞い」の練習に出会い、参加しませんかと誘われる。― その、誘ってくれた人が死んだ。残された妻、友人、謎。それらが一つ一つほぐれていく過程の中で、何が大事なのかを再確認させてくれる、悲しくも強さを感じる中篇。なんだかア・ルース・ボーイに色調がにているかも。

■ トランジスタ・ラジオ
 思春期の少年から見た離婚を描く。自分の親の離婚、友人の親の離婚。子供をおいてけぼりにして生活を送る親たちと、離婚したくせに鑑賞してくる親たち。それぞれを一人の視点から掘り下げ、最終的には父親から脱皮するお話。
 なんか、わかる。わかるけど、ラストはちょっと唐突でした。

■ 坂の上の家
 認知症にかかった生みの親を持つ女性のお話。子供を置いて出て行った母親。おかげで青春時代を家族の世話で消費する羽目になる。その原因である母親が認知症にかかっているらしいと聞いたときの、心のなかの怒りや葛藤、悲しみや羨望を描いた作品。
 話のわりにさらっとしているのが逆に印象的。私だったら絶対かけない類のもの。

■ 凱旋行進曲
 「おばあちゃん」の死をさまざまな視点から描いたもの。構成が面白い。小道具には携帯電話である。また、仙台ネタがたっぷりと盛り込まれており、非常にユーモラス。まさに凱旋「行進曲」にふさわしい作品。お気に入り。

■ 妄譚
 退職し、息子夫婦と別居をしている男性の孤独を、自分の中からの視点、モデルをとおしての視点という二重構造で描いている作品。
 中島みゆきな香りがする、のは何故だろう。ああ、そうか。モデルの男性が「狼になりたい」という曲に出てくる人にそっくりだからだ。

■ 歪んだ月
 父親の病死に端を発した暮らしむきを描いた作品。母の怖さ、強さ、悲しさそしてやさしさが家庭を支えていく。母から離れて始めてわかった彼女の苦悩を子供の視点から淡々とものがたる作品。
 ラストは泣きそうになってしまう。母親の愛と言うのは、時には狂気にも似ているのかもしれない。

■ ある夜の出来事
 足に障害を抱え、出歩けなくなった夫。頼んだヘルパーはどうやら夫に気があるらしい。というシーンから始まるのだが、童話の話が出てきて、作中の妻はあっさり自己完結してしまう。良くわかりませんでした。

■ 山形紀行
 壮年夫婦の山形紀行。旅につき物のトラブルや迷子、思い入れなどをアクセントに淡々と描かれる山形の風景。静かな夫婦の静かな旅路。こういう、旅がしたい。

■ ほろ酔い記
 お酒が呼ぶちょっとした禍福をテンポ良く書いた小品。酒は百薬の長であり、縁結びもその効用のひとつなのだよというのがメインテーマ。ほろ酔い加減のころにタイミングよく出てくる「本日のお勧め」見たいな一品。おいしゅうございました。

■ 桜
 育てるもの。冬になって散るもの。春になって咲くもの。そして萌え出物。老年夫婦が経験する、死と生の輝きを「畑」をとおして描いた作品。ちょっと話にちぐはぐなところがあるのだけれど、それは逆に、なんともいえない味を出してるような気がする。

■ お目出度き先生
 老いてますます盛んなとある書家。彼が起こす騒動をひとつのフィルターとして、老いた男性の性欲の一様相を見る作品。露悪というわけではないのだけど、うーん、それは人それぞれであって、ねぇ?っていう気がするとです。


■ フライド・チン・チキン
 凄く不思議な作品。でも、一番共感できた。彼が歩んできた人生の不幸な部分。それを乗り越え、振り払うための力を得るために、彼は、油まみれのフライド・チン・チキンを食べる。「あっちぃ」を連呼しながら。
 これ、なんだか良くわかるのです。ケンタッキーのフライドチキンではなくて、自販機で売っているフライドチキン。特に、病院で見るそれは、病人にとって手を出してはいけない禁断の食べ物。なまっちょろい病院食ではなく、油まみれの、熱々のジャンクフード。これじゃなきゃ、明日は乗り切れないのさ。

 次の二篇は「課題特集」。お題は「携帯電話」

■ 暗い扉
 携帯電話とはあまり関係ないもの。寝ている隙にクロロフォルムで昏睡させられた挙句に妊娠させられてしまったかもしれないと悩む女性が、結局は子供をおろしたって言うお話。ブランコが小道具として出てきているのだが、さっぱり意味がわからず。

■ お月様のシャボン玉
 ボケる寸前の女性が息子に携帯を持たせられる。ためつすがめつ見ていると、突然孫娘から電話がかかってくる。耳元で聞こえる孫の声に、おもわず彼女を背中におぶって世話していたときのことを思い出す。そのころに良く見たシャボン玉のようにふわふわしたお月様。
 過去と現在、記憶と行動。老いるということ、忘却するということを自然体で受け入れる老婆のかわいらしい姿が描かれている。ラストは、おもわずにっこりしてしまう終わり方。

 好みのものも、好みでないものも含まれており、性格上すべてを読まないと気がすまない私にとっては、とてもよい刺激になる。流石に会報に載るだけあって、それなりにレベルが高い。
 「麦の会」を構成する方たちはお年を召した方が多いのだろうか。重いテーマばかりではあるが、ある種の力強さや粘り強さを感じる作品が多いことに安心感を覚える。なぜ、といわれると困るのだけど…。

 このような雑誌をよむのも悪くない、と再認識させてくれた一冊でした。

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香水 ある人殺しの物語

 映画「パフューム」の原作である。「スピルバーグ、スコセッシが奪い合った禁断のベストセラー『香水』ついに完全映画化!!」と帯に書いてあり、弥が上にも興味をそそる。

 悪臭芬々たる18世紀のパリ。魚屋の店先で、立ったままの妊婦が赤子をひりだした。その赤子の名はグルヌイユ。後に稀代の調香師になる男である。なお、母親はこのお産が原因で逮捕された。
 孤児院に預けられ、成長する。その頃には自分の得意な体質を自覚し、言葉より先に匂いでものを判断できるようになっていた。青年になったグルヌイユは、孤児院からなめし皮職人に下げ渡される。皮の加工に使う薬品は当時、致死性の毒であった。
 その毒にも打ち勝ったある日、調香師のもとへ皮を届けに行く。彼らはこれで手袋を作るのだ。そこでであった香水の数々は彼のの才能を一気に開花させるトリガーとなる。香水の造り方なんかまったく知らないにもかかわらず、当時パリで大流行の香水とまったく同じものを作成したのだ。しかも、ついでといわんばかりに、その香りをちょっと修正した極上のものも一緒に。
 調香師は皮職人に掛け合い、20フランでグルヌイユを買い上げ、弟子にする。こうして、調香師への道を歩むことになった。
 そうしてパリで暮らす中、えもいわれぬ香りが彼を捉えた。それは、赤毛の処女が放つ匂い。その香りを獲得するために初めて犯す殺人。そして…。

 というストーリー。

 結論から言うと、あんまり面白くない。クライマックスシーンもああ、うん、そう来るよねという平凡なもの。ラストはなかなかに衝撃的であるが、これも想定内といえば想定内。しかも、まったく色気がない。冒涜的な表現はあるが、これもなんていうか、ごく控えめで刺激が少ない。その特異な体質と能力を持つがゆえに、読者に感情移入も許さない。となると、どこで楽しめばいいのやら。

 そういう意味では逆に映画が楽しみである。匂いの描写や匂いだけの世界という描写が出てくるこの作品を映像化するというのは、難しいだろう。難しいがゆえにやりがいもあるのかもしれない。映画を見に行きたくさせる小説というのも珍しい。

 話は外れる。

 「映画と原作なら原作のほうが絶対いいよ」という台詞をよく聞く。これは、映画しか見ていない人間に対する優越感を満足させるための低レベルな台詞と談じることも出来るが、一方、真実も捉えている。なにせ、原作は俳優が目の前にいない。つまり、自分の好きに想像できる。主人公をお気に入りの役者にするもよし、恋人にすることも自由自在。そういう意味では映画は絶対に原作を超えられない。
 だが、逆に考えると、自由な妄想を許さないというその特徴こそが映画を映画タラ占めている。自分が想定したものとはまったくイメージが異なる俳優の起用は、それが効果的であったと気づかされ、自分が持つイメージや感情を微調整させることすら出来る。妄想ではない、現実の制約条件の中でものを作り上げるというのは一つの芸術だろう。

 よって、楽しむ手段としての映画と原作は別物であるといえる。一つのストーリに対するアプローチが180度違う。一方は自分の願望を投影するものであり、一方は誰かの願望が投影されたもの、なのである。

 原作がつまらないからといって映画を見ないというのはもったいないと思う。映画もつまらなかったら、教えてください。

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御宿かわせみ

 平岩弓枝著。
 初めて「御宿かわせみ」の存在を知ったのは、テレビドラマであった。wikipediaによれば5バージョンあるとのことであるが…どれをみたんだろう。多分沢口靖子版じゃないかしら。

 時は江戸後期。大川端にある御宿かわせみ。女主人のおるいと恋人の東吾。彼らをとりまくかわせみの人々、宿に泊まる人たち、友人達が起こす事件を短編でつづったものが本作である。1973年からこのシリーズは書き続けられており、その数は200話を超えたとのこと。

 主人公である「御宿かわせみ」女主人のおるいさん。これがもう、可愛いの一言に尽きる。二十歳をちょっと超えたくらいの歳であるので、当時とすれば「いきおくれ」の部類に入る。故に現在で言うところの30代くらいの匂うような色気を放つ一方、、少女のように顔を真っ赤にして恥らうという面もある。

 忙しく飛び回る恋人の東吾。なかなかおるいと逢うことが出来ない。逢ったら逢ったで他の女の話が話題に上ってしまい、拗ねるおるい。そして東吾の一言。

「るいに焼餅やかれるようなことをしていたかどうか、もうすぐ証拠を見せてやるさ」

 頬を真っ赤に染めるおるいタン。何考えてんのよえっちー。…と、このように、たまらなく可愛い。恥らいっていうのは何時の世でも大事な要素です。ツンデレだって突き詰めればこの「恥じらい」ってモノがもたらすギャップを云々って話でしょう?

 恋人の東吾は何をやっているかと言うと、与力見習いと言うべきか、冷や飯くらいと言うべきか。基本的に職は(いまのところ)ない。が、体の弱い兄に代わって与力をすることになるかもしれないという状況。兄を助けたり、道場をぶらついたりしている。
 彼もまた、愛すべきキャラクターとなっている。こちらも20代前半。若造らしい粗野な物言いをしてみたり、分別ある台詞をはいたりもするのだが、そのタイミングが絶妙。たとえば、一緒に買い物に行き、甘酒を飲みながらほっと息をついているおるいさんに向かって、いきなり

「女房になれよ」
そっと耳にささやくと、るいの体がびくっとふるえた。

 なんて不意打ちを食らわすナイスガイ。漢だねェ。言われてみたいし、言ってみたい。こういう男と結ばれたいと思う娘さんは多かろうなぁ。

 そのほかにも、愛すべきキャラクターたちが紙面狭しと飛び回り、笑い、泣き、嘆息する。喜劇仕立てではない。一本暗い筋がある。人間なら誰しも持つ、業とでもいうべきものが漂わせる雰囲気なのか、江戸後期が持つ「時代の暗さ」なのか。

 全25巻?長丁場になりそうである。うふふ。

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香水物語

 森瑤子著。
 あれ、島崎藤村読んでたのではないの?という突っ込みは即刻却下します。

 ハードカバーのものを古本屋で入手した。装丁も結構こっており、なんとなーくゴージャスな感じ。そういえば、森瑤子は「カタカナ言葉」を実に上手く使う。普通アレだけカタカナが並べば嫌味になるはずなのだが、そうはならない何かがある。

 ごくごく短い物語が46篇。69篇じゃないのね、と思ってしまった私はちょっとどうかしてる。大きく「香水物語」と「宝石物語」に分かれており、それぞれ香水と宝石をテーマにしたものが書かれている。

 たとえば、COCOだったりプワゾンだったりニナ・リッチだったり。有名な香水だけでなく、体臭やタバコの香、ワインの芳香までも舞台装置として出てくる。それらがつむぎだす男と女の出会い、会話、そして別れ。あるときは女の象徴として、あるときは男の魂の象徴として、あるときは生々しいまでのセックスの香として。それぞれの香水にまつわる短い話がたっぷりと堪能できる。
 私は香水の香りが嫌いである。あの鼻持ちならない自己主張。特に、夏の満員電車で否が応でも嗅がされてしまう化粧品とシャンプーまたはリンスと香水が入り混じった臭いは、実にすばやく、私の頭を痛くする。プワゾンなんて、ナンバーテン。日本人には絶対似合わないと信じて疑わない私であるが、そんな私にすら香水への興味を惹起させる一冊。

「香水の匂いで、すぐにわかりました」
「でも」
 わずかに心臓がドキドキしていた。「この香水をつけているのは、世界中で私一人と言うわけじゃないわ」
 私は部屋の前で立ち止まった。
「そう、KLをつけているのは何もあなただけではない」
 男はあわてずにそう答えた。「でも、あなたの体温で、KLは唯一無二の香りになる。あなたの匂いになる」

 汗とのミックス、つまりは、体臭とのシナジーによって、香りはより洗練されたりやわらかくなるのだというのは経験上でも知識の上でも知っていた。が、体温、か。なんて官能的なんだろう、そう、思った。エロという下品なことばでは言い表せない何かが馥郁たる香りを撒き散らしているさまがまざまざと見える。

 一方、宝石物語群のほうはもっと落ち着いた感じのもの。ここでの宝石の定義はエメラルドやルビーといった輝石だけではなく、それらも含めた「かけがえのないもの、希少できらきらしたもの」である。官能さは鳴りをひそめ、もっと精神的な、思わず微笑んでしまうようなエピソードがぎっしり。どちらかと言うとこちらのほうが好みだけれど、うーん、どっちも捨てがたいなあ。

 身につけた人を引き立たせるのが香水の本来の役割であるはずだ。それを忘れて、「香りをまとう」のではなく、「香りを盾にする」のでは、まったく持って意味がない。男性にも女性にも、それを忘れないでいただけると、満員電車はもうちょっと快適になるのではないだろうか。どうだろう?

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